Funny Joy(ファニー・ジョイ)

ポンコツアラフォー女医の全くキラキラしてないブログ

2018年06月

中学校時代
ど田舎からバスで2時間かけて中学校に通いました。
同じ小学校からは数人合格しました。女子は私ともう一人だけでした。
彼女の名前を仮にてん子ちゃんとします。

てん子ちゃんは絵がめちゃくちゃ上手でした。
小学校の風景画を描く授業では、先生が「絵の具はべたっと塗らず、筆脈の一本一本が見えるように仕上げましょう」と説明したのを言葉通りに受け取り、極細筆で気の遠くなるような緻密な絵を仕上げて大賞に選ばれてました。
ピアノも超上手で絶対音感があり、一度聞いた曲はピアノで即再現可能でした。
小学校のときは先生より上手なぐらいでした。

ただ、物言いが超ど直球で人の気持ちを想像するのが苦手なようでした。
「想像しようよ」と言ったところで「なんで僕がそんな事しなきゃいけないの」と真顔で返す子でした。
てん子ちゃんは小さい時から高3まで僕っ娘でしたw(トランスジェンダーではない)

てん子ちゃんはアニメが好きで、天性のオタク気質がありました。
好きなアニメのためにノートを作り、好きなシーンのセリフをきれいな字で書き起こしていました。
その熱量たるや。

ちなみに私たちは「魔動王(まどうキング)グランゾード」や、同じ監督の「魔神英雄伝ワタル」というアニメが特に好きでした。サンライズという会社が制作しており、サンライズはガンダムなどで有名です。

そんなてん子ちゃんと毎日通学中の4時間おしゃべりして過ごしました。バスの中で勉強するという発想は全くありませんでした。
そしててん子ちゃんは私のことを友達というよりは家来のように扱っていました。

てん子「町中にアニメイトという店があるらしい。行ってみたいけど、寄り道なんかして補導されたらどうしよう(慎重派)」
私「面白そう!補導とか大丈夫やろ!行こー!(お気楽)」

学校の帰りにバスを途中下車し、二人で少し緊張しながら初めてアニメイトに訪れました。
そこは夢の国のようでした。
キャラクターグッズが、ポスターが、アニメ雑誌がキラキラ輝いて見えました。鼻血が出そうになりました。

私の住んでいた地域はアニメ不毛地帯でした。つまり、アニメをあまり放送していませんでした。
夕方、トムとジェリーや一休さんの再放送が何年も流れていました。
今なら田舎住まいでも好きなアニメを観る方法はいくらでもあるんでしょうが...。

アニメオタクと言いつつ、アニメそのものは観ることが叶わず、アニメ雑誌を隅から隅まで眺めて満足していました。
「アニメディア」や「アニメージュ」、「ファンロード」という雑誌が好きでした。
そしてこの時期、同人誌なるものを知りました。

てん子「今度、コミケというものがあるらしい。行ってみたいけど、補導されたらどうしよう」
「!!!それは絶対行くやろーー!!!」

待ち合わせて一緒に行きました。
日曜日なのに、しかもコミケに行くのにてん子ちゃんは制服で来たのでびっくりしました。

てん子「生徒手帳に『休日外出する際は制服着用のこと』って書いてあるから、着てないと補導されるかもしれない」

てん子ちゃんは補導を異常に恐れていました。

コミケはめちゃくちゃ楽しかったです。作家さんに頼めば、タダもしくは格安でスケッチブックに好きなキャラの絵を描いてくれました。今でもこのシステムあるのかな?

てん子ちゃんはコミュ障なので、自分の分まで私に頼ませてました。自分のことは自分でしろよ、全く。
しかしてん子ちゃんの凄いところは、私がウンと言うまで何百回でも頼み続けるところです。

こんなに素晴らしい世界があったのか、と感動しました。
コミケが毎月あればいいのに。薄い本でも何百円もするので、お小遣いがすぐなくなりました。

家が遠すぎて学校の部活には入れなかったけど、オタクになってしまえばそれなりに充実感が得られました。

しかし、しかしです。
90年代、アニメオタクは日陰者でした。オタク趣味は隠すものでした。
スクールカーストという言葉は苦手ですが、オタクは間違いなく最下層でした。つまりいじめられる。

そこまでひどい目には合いませんでしたが、男子にいじめられそうな気配を感じました。不毛地帯に住んでいたのでそこまではまる作品にも出会わず、私は人目を気にして中3くらいでアニメは一旦休憩しました。

一方てん子ちゃんは気配を感じる能力が欠落していたので、脇目もふらずにオタ道を邁進し続けていました。

そんな彼女のことを、「周囲から白い目で見られてるのに気づかないでオタク趣味を続けるなんてバカだなー」「でも忠告したところで逆ギレされるだろうしなー」と思ってました。

でも今ならこう思います。
周囲の目を気にして、好きなことを我慢するほうがバカだ、と。

そして肝心のお勉強のほうはさっぱりで、クラスで中の下くらいでした。
授業中、いつも睡魔に襲われ半分くらいは寝ていました。
ほんと往復4時間もかけて何しに行ってたんだろ。

中学生の半分が過ぎると、親が私の勉強に付いていけなくなりました。
危機感を感じた親は、私に家庭教師をつける事にしました。

またこの先生がパンチあるキャラでした。
つづく。

外堀
小学校も半ばになってくると、近所の人や親戚からよく言われました。
リコちゃんは大きくなったらお医者さんになるのよね。ご両親もお医者だもんね。」
「中学校は地元じゃなくて、町の中学に行かなきゃね」と、知らないおばあちゃんからも声をかけられてました。


ここで、私の両親について紹介します。
父は一言で言うと「筋トレ暴力裸族」でした。でした、というのはもう亡くなっているからです。
どおくまんの「嗚呼!花の応援団」という漫画を愛読し、その主人公である青田赤道という破天荒なキャラを理想としていた節がありました。
格闘技が好きで、「週刊ゴング」や「近代柔道」を定期購読していました。

父は仕事から帰るとすぐに白ブリーフ一丁になり、家庭で服を着ているのを見たことがありませんでした。
趣味は筋トレとジョギングで、私と妹がしょっちゅう付き合わされ、これが嫌でたまりませんでした。
父はこれでイクメンのつもりだったようです。
山道を意味なくダッシュで駆け上るよう命じられ、疲れて妹と二人で歩くと「誰が歩いていいと言うた!?」と父は激昂しました。
片手に私、もう片手に妹の頭を鷲掴みし真ん中で勢いよくぶつけるというこの暴力は、紛れもなく青田赤道と同じ手法でした。

父は娘たちを一体どんな風にしたかったのか、何を目指していたのか全くの謎でした。
夜、父が仕事から帰ってくると私はテンションがガタ落ちしました。不在の時はイキイキしました。
父さん元気で留守がいい。

こう書くとまるでモラハラDV男のようですが、まぁそれで大体合ってますが、父は仕事においてできる限りの力を尽くし、地元の人からそれなりに信頼されているように見えました。


母は一言で言うと「正当化自信満々真面目ババア」です。
母は臨床医として働きつつ、経理や人事の仕事もこなしていました。
素早く物事の優先順位をつけ、全体を俯瞰的に見渡す能力がありました。
父や私には一切できない事です。
仕事家事育児などの多くのタスクを...全ては絶対にこなせないので掃除は外注していました。
手を抜くところはかなり抜いていました。

料理は決して下手ではないのですが、
「うーん、今日の献立は栄養バランス完璧っ!」
「リコちゃん、ちゃんと食物センイ取らないとウンコが出ないわよ!」と食事中にウンコの話を控えるマナーよりも、食物は栄養を与えてくれた後どのようにウンコになるのかを優先して子供に教えてくれました。
なぜかいつも自信満々で判断に迷いがなく、自分のする事はいつも正しいと信じているようでした。

こう書くと危ない人間のようですが、基本的に優しい家族思いな母です。
私たち娘のことを、可愛いとか素晴らしい才能があるとかよく褒めてくれました。

そして私が小学4年生のとき、親が突然分厚い参考書や問題集を買ってきました。
父「来年から塾に行くのだから、塾の勉強に付いていけるように今から準備せい」

ええ〜......。

私はゆとり世代ではないですが、私の通っていた公立小学校はけっこうゆとり教育でした。このため、学校のテストではほとんど100点が取れました。
小学校では、算数なら最低限の計算と、漢字が読み書き出来たらオッケーでした。
理科や社会は暗記を一切求められませんでした。
(社会のテストは、表を見ながら答えなさい、ってテスト用紙の中に答えが書いてあったw)

私に拒否権はなく、毎朝5時に起こされ問題集をひたすら解くのが日課になりました。
出来ないと父からせっかんです。
すぐに私を殴れるようにせっかんグッズが机の横に置かれました。
ここで「殴られたら痛いランキング」を発表します。

ランク外 竹刀
なぜかうちには竹刀が3本も置いてあって、マジックで刀身に「しつけ棒」と書いてあった。全然面白くない。
叩いたときの音がでかい。パァン!!痛さは中くらい。

第3位 ソロバン
音はまあまあ。パン!...ジャラッ。かなり痛い!角を使うのは反則!

第2位 リモコン
お相撲さんかっ。ニュースでカラオケ屋のリモコンを使って殴られた話を聞いた時、父を思い出しました...。

第1位 こけし
もう、超痛い。ゴッ!と鈍い音がする。

父は「お前が来年スパルタ塾で挫折しないように、今から痛さへの耐性をつけておけ」と狂ったことを言いました。

今なら児相へ通報レベルです。

子供が危険なことやものすごく悪い事をしたのであれば(窃盗とか弱いものいじめとか)、場合により体罰もやむを得ない状況もあるかもしれません。
でもお勉強ごときで殴るべきじゃない。
殴るとしても自分の手で殴るべきだ。
手なら作用反作用で、どれだけの強さで子供を叩いてしまったか分かるけど、道具だと分からない。
暴力への耐性なんて、女の子についているほうがおかしいだろうが。

...マジで書いてしまい、ですます調が一時崩壊しました。

私は父親への愛情を失い、少しの学力をつけました。当然勉強は大嫌いになりました。

そして5年生になり、塾は最後まで通いました。同期の4分の1が途中で辞めました。
ところでスパルタ塾の体罰は、細い指揮棒でペシン、程度でしたww

塾の教え方は独自のノウハウがあり、分かりやすかったです。
怖かったので通うのはつらかったけど、先生はキャラ立ちまくっててネタ的に面白かったので、いつか記事に書きたいです。

志望の中学にも無事に受かりました。
つづく。

次回「リコちゃんオタク中学生になる」の巻です。
絶対みてくれよな!

今回、胸糞注意だったかも、すみません。
でもこのへんの葛藤は後で解決していますのでまた書きます。

引っ越し後、年長デビュー
父親の地元に県をまたいで引っ越しました。
前住んでいたのは四国内の県庁所在地でしたが、新しい家はど田舎にありました。
家から一番近い公立の幼稚園に編入しました。

するとそこは天国でした。
みんな超優しい。素朴でフレンドリー。
転園生ということもあって、めっちゃ私に興味を持ってくれました。
私と遊びたい子が順番待ちしたり、時には私の取り合いに発展しそうになりました。
幼稚園カーストというものがあるならば、最下層から転園生というトップレベルへ急上昇したため5歳の脳は状況を処理できず、「グフホ、グフフ」と照れ笑いを浮かべながら身をクネクネよじらせて束の間のアイドル気分を味わっていました。

新しい幼稚園の先生は初日にそっと耳打ちしてくれました。
もし、リコちゃんのことをメガネザルー!なんていう子がおったら、先生だってメガネかけてるよ!って言えばいいからね」
母から何か聞いていたのか、先生が気遣ってくれたのでした。

先生は優しいし話も長くないし、課題も難しくない。
前の幼稚園では難しい工作が課されると完成できず、泣きながら怒鳴られながら一人きりで居残りしていた)好きな遊びを自由にして構わない。何これ、ほとんど休み時間やん。何て良いところなんだろう、と思いました。

無敵のアイドル期間はごく短時間で終了しましたが、通常モードに戻っても楽しく過ごせました。
公立だったので皆家が近く、幼稚園が終わった後も夕方まで集まって遊ぶことが出来ました。

田舎で人の優しさに触れたおかげで、根暗キャラから普通に明るい子へと変身しました。
他人への恐怖がやっと薄れてきました。

小学生時代
そして公立の小学校に入学しました。ここで学校生活に小さな問題が生じてきました。
私は物の管理がとても下手で、忘れ物はクラスで常にトップでした。

忘れ物の数だけ名前の所にシールを貼られる表は、契約数ナンバーワンの営業サラリーマンみたいになっていました。
子供なりにどうにかしようとしました。
持ってくるものリストを作る?お母さんにチェックしてもらう?

メルヘン少女の私は迷わず「おまじないに頼る」という方法を取るとこにしました。
小学館の「おまじない入門」にはこう記載されていました。

「パンジーの花を2.3本用意し花瓶に生けます。そして気持ちを集中して次のように3回言いましょう。『パンジーの妖精さん、あなたの春の陽気が私を忘れんぼにするのよ。』この儀式は誰にも見られずに行いましょう」

ほんと、誰にも見られなくて良かった。
無事におまじないは終了し、自己暗示かパンジーの妖精のおかげか、忘れ物は減りました。

しかしある日、面談で先生から「リコちゃんの机の上だけ、放課後も含め常に物が出ています」と言われたことを契機に母の持ち物チェックが始まりました。
なんで筆箱に鉛筆が一本も入ってないの!?」基本優しい母がブチ切れました。
めんどくさいので私は鉛筆を全部ランドセルに直入れしていました。
鉛筆は筆箱にいつも入れないといけないのか...気が向いたときだけ入れてたけどダメだったのか。
次に教科書を見て母がキレました。

なんで教科書にカバーがついてないの!?」
か、カバー?それは今まで一度も見たことがないと思うけど、、、。「分からない〜。ひっくひっく、知らない〜(泣)」
実際にクラスの誰もそんなもの使っていませんでした。
この時すでに2年生でしたが、何で今さら初耳アイテムを標準装備のように言うんだろう、と思いました。
母は引っ越しと同時に6年ぶりに復職し、忙しかったので私の面倒はそこまで見きれなかったのです。

母の怒りは収まりませんでした。
無いなら作りなさい!!」夜中に突然、母との工作タイムが始まりました。
私、工作は苦手ですので代わりに母がデパートの包装紙をひっくり返して再利用して全教科分の教科書カバーを作りました。
白い紙で覆われると、何の教科かさっぱり分かりませんでしたw
分かるように表紙に自分で書きなさいよ!」好きな色でカバーに可愛く斜めに書き散らしました。
さんすう、さんすう、さんすう・・・
自分なりのこだわりで「算数は水色」「理科は黄色」「音楽はオレンジ」
共感覚というらしいですが、だから何だよ、です。こだわりです。ぢぐはぐだと落ち着きません。
他にも「丸は赤」「四角は青」などの図形がらみや、「6×4=24はオムライス」「3×5=15は苺ショート」いう九九グルメなど、全くどうでもいい謎の共感覚もあります。
一切役に立ちませんし、前うっかりリアルで口走り「くだらなぇ」と言われたのでそれ以来黙ってました。
ちなみに教科書カバーは友達に少し好評でしたw

共感覚は置いといて、多分私は発達障害の境目だったんだと思います
当たり前のことでも、言われないと分からなかったのです。
授業中座ってられないということはありませんでしたが、頭の中はあっちこっちを徘徊していました。
注意力が散漫でこれは今も同じです。
でも昭和の時代には自分も親も含め、誰も気にしていませんでした。
小学校は宿題あるし、持ってくるもの多いし、めんどくさいなー!と思いながら通っていました。
とは言え、平和な日々でした。

しかし2年後、試練が待ち受けていました。
次回「小学校高学年、恐怖の中学受験編」です。


つづく。

広大なネットの宇宙から当ブログを見に来てくださり、誠にありがとうございます。

リコと申します。2児の母です。

日々仕事育児家事に追われているポンコツアラフォー内科医です。

内科医のブログといっても、役に立つ内容は全くございません!
ここは見ての通り、キラキラしている女医ブログではございません!勉強にもなりませんよ!
なんせポンコツですからね!健康相談は受け付けかねます!(その前に誰もみてない)

パソコン音痴のくせにどうしてもブログがしたい衝動にかられ、ちゃちゃこさん率いるクソババアサロンhttps://tyunsuke-fufu.com/kusobabasalon-shousai/に入り、色々教えてもらいつつ
島流ししゅうへいさんhttp://www.shuheimurakami.com/の有料noteを500円で買い(現在は売り切れ)、どうにかこうにか1記事目にたどりつきました。

記念すべき最初の記事は定番の「自己紹介」です!

赤ちゃん時代
私は四国のとある県で三人姉妹の長女として生まれました。

しかし生まれてしばらくすると、母は私の異変に気づきました。

母「この子・・・右目がえらい内側に寄ってない?」

私は内斜視で弱視でした。両親はツテをフル稼働し当時斜視手術で定評のあった東京の病院を紹介してもらい、そして手術することができました。
乳児の治療のために四国から東京へ行くのはさぞかし大変だっただろうに、親には感謝しています。

そして、多分2歳ごろから弱視の治療を始めました。

健眼遮蔽(けんがんしゃへい)といって、よく見えるほうの目をシール状の眼帯でふさぎました。
これで一定時間過ごすと、弱視側の視力が回復します。
(逆に言うと、ものもらいとかできたとしても赤ちゃんや小さい子供に眼帯は禁忌ですよ。
弱視がない子が弱視になってしまいます)

しかし・・・これが辛かった!!よく周りが見えない状況で過ごす時間は退屈で孤独でした。

よしもとばななさんは弱視の治療中に妄想力を高め、作家としての資質を養ったと書いていましたが・・・
そこは大作家と凡人の差。

眼帯を見るだけで泣きながらダッシュで逃げていたのを思い出します。

これは両親もストレスだったに違いありません。

近所に住んでいた眼科医の先生も「そんなにいやだったら止めてもいーよー」と言ったので
母はあっさり健眼遮蔽を止めました。

そして視力が回復できる時期を逃がし、現在も右目はよく見えないままですw

もっと頑張っておけば良かった・・・・。ちょっと後悔しています。
でも現在、日常生活で困っていることは特にありません。

そして3歳ごろからメガネをかけるようになりました。

幼稚園時代
極度の恥ずかしがりやアンド人見知りでした。
幼稚園に通いだした最初の一年は、誰とも一切口をきけませんでした。
今思うと、陰キャ通り越して場面性緘黙(かんもく)でした。

場面性緘黙とは?家庭などではふつうに喋るけど、公の場など状況によって黙ってしまうことです。

幸い、年中さんになったら幼稚園でも喋れるようになり、一人か二人、友達もできました。

被害妄想かもしれまんが、大半の子は私のことをあまり好意的にみていないような気がしていました。
特に男の子はあたりがキツく、優しくされた記憶が全くありません。
メガネもマイナス要素としていじられていました。

私が通っていたのは少し教育熱心な家庭の子が通う幼稚園でしたが、得たものは特にありませんでした。
自分にはたまたま合ってなかったんだと思います。

母は幼稚園の個人面談のとき、担任の先生から「リコちゃんの印象は全く残ってないです」と10年ぶりの同窓会でも許されるかどうかギリギリなセリフを学期末にさらっと言われ、「あの幼稚園はよくなかったね。建前だけでも何とかひねり出すでしょ普通。」と未だに根に持っています。

一方家庭ではテレビっこでアニメをよく観ていました。特に「魔法のプリンセスミンキーモモ」が好きで、12歳ぐらいになったら魔法少女になりたいとマジで思っていました。

でも一番好きだったのは、見逃すと号泣するほど愛していた番組は、「8時だヨ!全員集合!」でした。
荒井注世代でなく、志村けん世代です。

以上の経過から、私は「お笑い好き根暗メルヘン少女」という、不安要素しかない生き物として幼児期を過ごしました。

そんな私に転機が訪れました。5歳のとき、父親が地元に帰ることになり家族4人(両親、私、妹)で引っ越しました。
これがきっかけで私の性格を変えることになります。

つづく。

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